天の岩宿戸(後編)


●読み下し文

 ここに天照大御神(あまてらすおほみかみ)、怪(あや)しと以為(おも)ほして、 天の石屋戸(あまのいはやと)を細めに開きて、内より告()りたまひしく、「吾(あ)が隠(こも)りますによりて、 天(あま)の原自(おのずか)ら闇(くら)く、また葦原中国(あしはらのなかつくに)も皆闇けむと以為(おも)ふを、何由(なにのゆえ)にか、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)は楽(あそび)をし、また八百万の神も諸咲(もろもろわら)へる」とのりたまひき。ここに天宇受賣命白(もを)ししく、「汝命(いましみこと)に益と(ま)して貴き神坐(いま)す。故(かれ)、歓喜(よろこ)び咲(わら)ひ楽(あそ)ぶぞ」とまをしき。かく言(まを)す間に、 天児屋命(あめのこやねのみこと)、布刀玉命(ふとだまのみこと)、その鏡を指( いだ)し出して、 天照大御神(あまてらすおほみかみ)に示せ奉(まつ)る時、天照大御神、 いよよ奇(あや)しと思ほして、稍戸(ややと)より出でて 臨(のぞ)みます時に、その隠(かく)り立てりし天手力男神(あめのたぢからをのかみ)、その御手(みて)を取りて引き出(いだ)す即ち、 布刀玉命、尻くめ縄(なは)をその御後方(みしりへ)に控(ひ)き渡して白(まを)ししく「これより内にな還(かえ)り入りそ」とまをしき。故、天照大御神出で ましし時、高天の原も葦原中国も、自ら 照り明りき。

 ここに八百万の神共に議(はか)りて、速須佐之男命(はやすさのをのみこと)に千位(ちくら)の置戸(おきど)を負(せほ)せ、また鬚(ひげ)を切 り、手足の爪も抜かしめて、神遂(かむや)らひ遂(や)らひき。

 

●現代文

 天照大御神は不思議に思って、天の石屋戸を細めに開いて、外をのぞいて言いました「私が隠れているので高天原は自然と闇らくなり、また葦原中国も暗くなるはずなのに、どうして、天宇受賣命は歌い踊り、八百万の神々も笑っているのだろう」と。

 天宇受賣命は、天照大御神に対して「あなた様より貴い神様がおられますので、皆、喜び笑って楽しく歌ったり、踊ったりしているのです」と答えました。このようにお答えになっている間に、天児屋命、布刀玉命が、鏡をさし出してお見せしたところ、天照大御神はますます不思議に思われ、天の石屋戸より身を出して鏡をのぞきこまれました。その、隠れていた天手力男神が、天照大御神の手を取って引き出しました。布刀玉命は、天の石屋戸の入口に注連縄を引き渡していいました「ここから内には二度とお入りならない様にお願いします」と。

 このようにして、天照大御神が再びお出ましになられると、高天原も葦原中国も、自然と明るくなりました。 

 そこで八百万の神々が一緒に相談されて、須佐之男命の罪穢れを祓うため、沢山の品物をさしださせ、また鬚や爪を切って、高天の原から追放されました。

  

天の石屋戸の意味 

 このお話は、須佐之男命が罪を犯し、それを見て見ぬふりをしていた八百万の神々の御心も須佐之男命と同じように異心に覆われていることを気づかせようとした天照大御神の教えであります。

 困り果てた八百万の神々は、天の石屋戸の前で自らの異心を祓いに祓った時、その大本に天之御中主神が実在していることを体認したのです。本文に「天児屋命、布刀玉命、その鏡を指し出して、天照大御神に示せ奉る」とありますように、鏡とは八百万の神々が感応した本体の御魂の依り代のことであり、それを天照大御神に差し出して、八百万の神々の祓の努力をご照覧仰いだのです。これが今に続く神社祭祀の原型であります。また、このお話こそ、日本の歴史の本源に流れている天つ神の「永遠のいのち」であり、この物語の本来の意味を伝えていくのが神道の使命であると、先生は言っておられます。