暦学入門


日本の暦の歴史

●暦の渡来

 暦は中国から朝鮮半島を通じて日本に伝わりました。大和朝廷は百済(くだら)から暦を作成するための暦法や天文地理を学ぶために僧を招き、飛鳥時代に日本最初の暦が作られました。 

 暦は朝廷が制定し、陰陽寮(おんみょうりょう)がその任務にあたっていました。陰陽寮は暦の作成、天文、占いなどをつかさどる役所であり、暦と占いは分かちがたい関係にありました。

 

●暦の普及

 陰陽寮が定める暦は「具注暦(ぐちゅうれき)」と呼ばれ、季節や年中行事、また毎日の吉凶などを示すさまざまな言葉が記入されていました。これらの記入事項は「暦注(れきちゅう)」と呼ばれています。

 「具注暦」は、奈良時代から江戸時代まで使われましたが、特に平安時代の貴族は毎日暦に従って行動し、その余白に自分の日記を記すことが多く、古代から中世にかけての歴史学の重要な史料となっています。

 また、かな文字の普及によって、「仮名暦(かなごよみ)」が登場。鎌倉時代末期からは手書きでなく印刷された暦も現れ、暦はより広く普及していきました。 

 

● 近世の改暦  

 江戸時代に入り天文学の知識が高まってくると、暦と日蝕や月蝕などの天の動きが合わないことが問題となり、江戸幕府のもとで暦を改めようとする動きが起こりました。

 平安時代から中国の宣明暦(せんみょうれき)をもとに毎年の暦を作成してきましたが、実態と合わなくなってきていたのです。

 そうして、貞享(じょうきょう)二年( 1685)、渋川春海(しぶかわはるみ / 1639〜1715)によって初めて日本人による暦法が作られ、暦が改められました。これを「貞享の改暦」と言います。

 

 江戸時代には、その後「宝暦の改暦」( 1755)、「寛政の改暦」( 1798)、「天保の改暦」(1844)の全部で四回の改暦が行われました。西洋の天文学を取り入れ、より精密な太陰太陽暦が作成されました。

 江戸幕府の天文方が暦の計算を行い、賀茂氏の系統を受け継いだ幸徳井(こうとくい)家が暦注を付け加え、各地の出版元から暦が出版されました。

 

●暦の普及  

 明治政府は、近代化の中で暦についても欧米との統一をはかり、明治五年( 1872 )十一月、太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦を発表しました。これによって明治六年(1873)から、太陰太陽暦に替わり現在使われている太陽暦が採用され、現在に至ります。

 

※旧暦からグレゴリオ暦に急遽変えた裏事情!

 財政難に苦しんでいた明治政府は、旧暦だと翌明治六年が閏年で十三か月になるため、役人に給料を一ヶ月多く払わなくてはいけなくなります。この支払いを免れたかった政府は、急遽太陽暦に変えた理由の一つであるようです。

 

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