「黄泉の国」の解釈


●読み下し文

 最後(いやはて)にその妹伊邪那美命(いざなみのみこと)、身自(みづか)ら追ひ来たりき。ここに千引(ぢびき)の石(いは)をその黄泉比良坂(よもつひらさか)に引き塞(さ)へて、その石を中に置きて、各對(おのおのむか)ひ立ちて、事戸(ことど)を渡す時、伊邪那美命(いざなみのみこと)言ひしく、「愛(うつく)しき我が汝夫(なせ)の命(みこと)、かく為(せ)ば、汝(いまし)の國の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千頭絞(ちがしらくび)り殺さむ」といひき。ここに伊邪那岐命(いざなぎのみこと)詔(の)りたまひしく「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命(みこと)、汝然為(いまししかせ)ば、吾一日(あれひとひ)に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)を立てむ」とのたまひき。ここをもちて、一日(ひとひ)に必ず千人死(ちたり)に、一日(ひとひ)に必ず千五百ちいほたり生まるるなり。故(かれ)。その伊邪那美命(いざなみのみこと)を號けて黄泉津大神(よもつおほかみ)と謂ふ。また云はく、その追ひしきしをもちて、道敷大神(ちしきのおほかみ)と號(なづ)くといふ。またその黄泉の坂に塞りし石は、道敷大神(ちしきのおほかみ)と號(なづ、また塞(さや)ります黄泉戸大神(よみどのおおかみ)とも謂ふ。故(かれ)、その謂はゆる黄泉比良坂(よもつひらさか)は、今、出雲國(いづのもくに)の伊賦夜坂(いふやさか)と謂ふ。

●現代文

 最後に伊邪那美命が、自ら追ってきました。そこで伊邪那岐命は千人引き程の大きな岩を黄泉比良坂に置いて、その出入り口を塞いでしまいました。

 伊邪那岐命と伊邪那美命はその岩を挟んで別れの言葉を交わしました。

 伊邪那美命は伊邪那岐命に対し「愛(うつく)しい我が夫よ、あなたが私にこのような仕打ちをなさるならば、私はこの世の人々を、一日に千人殺します」と。それに対して伊邪那岐命は「愛(うつく)しい我が妻よ、おまえがそのようなことをするのならば、私は一日に千五百人の子を誕生させよう」と言い返しました。

 このことから人代では、一日に千人の人が死に、一日に千五百人の人が生まれるようになったのです。このようなことから伊邪那美命を黄泉津大神とも言います。また伊邪那岐命に追いついたことからまたの名を道敷大神とも謂われます。

 さらに黄泉の坂を塞いだ岩を道反之大神と謂い、またの名を黄泉戸大神とも謂われます。

 そして、黄泉比良坂は、今の島根県(出雲の國)にある伊賦夜坂というところです。

古代日本人の生死観

 桃の実の「いのちの力」によって黄泉の国の追っ手から逃れた伊邪那岐命は、最後に追ってきた伊邪那美命に対しても千引の岩で生と死の間を遮断し、全ての死神をふり祓たのです。このようにして伊邪那岐命は、死の国である黄泉の世界から解放されたのです。

 この部分は人の生と死の起源を説明したところだと言われています。

 人の生と死は自らの心の中にあります。決して心の外に生死があるのではないのです。生死の心を作っているのは、私たち自身の自我や分別の異心です。したがって、死神に私たちの心を奪われてはならないのです。いついかなる時であっても天つ神から賜った生命力に満ちあふれた清らかな心を守っていくことが大切だと先生はおしゃっています。

 おそらく古代の日本人は、直感でこのことが解っていたのではないでしょうか。つまり、私たちは死によって肉体は消えますが、霊魂(たましい)は決して消滅することなく生き続けるものだと。

 それが古代日本人の生死観だったのではないでしょうか。