中庸


中庸とは

 中国、春秋時代の思想書。子思 ※①の著と伝えられていま す。中庸はもともと 「礼記 ※②」 中の一編。朱熹 ※ ③によっ て注訳書として作られ、四書 ※④の一となりました。

 偏(かたよ)らざる、これを中と謂い、易(かわ)らざる、これを庸と謂う。中なる者は天下の正道なり。庸なる者は天下の天理なり。

つまり「中」とは不偏※⑤、「庸」とは不易※⑥である。

だから中庸とは、過不及がなく不易※⑦バランスがとれていて、いつの時代にも当てはまり、それだけにまた一見したところ平凡としか言いようのない、そういう道理を指している。これはもともと天から人間に賦与されているものである。

 

だが、それを実現するためには、絶えざる修養にまたなければならない。 

 

中庸 一章 ※中庸の冒頭の言葉

 天の命(めい)はこれを性(せい)と謂い、性に率(したが)うこれを道と謂い、道を修むるこれを教えと謂う。  

 

 

 天命之謂性 率性之謂道 修道之謂教

 

守屋洋先生の訳

「天の命はこれを性と謂う」の「性」とは、人の本性を指している。それは天によって賦与されているのだという。「性に率(したが)うこれを道と謂う」の「道」とは、人たるの道である。人倫※⑧の規範、あるいは道徳と言っても良い。それは人の本性にもとづくものであり、したがって天から賦与されているものであるというのだ。

 

 「道を修むるこれを教えと謂う」の「教え」とは、学問・教育を指している。人は何のために学問をし、なんのために教育を必要とするのかといえば、「道」、すなわち人倫の規範※⑨を習得するためのである。換言すれば、人々に「道」を自覚させ、それを修得するように導くのが、学問であり、教育なのだという。

 

蛇足

 園田真次郎先生の九星の原理とこの中庸の「性」の意味を読むと「九星」の「性」のもつ意味が一層腑に落ちましたので、もう一度、ここに園田真次郎先生の「九星の原理」の一部を紹介させていただきました。

 

「星といっても我々が夜空に仰ぐ天の星のことではありません。俗に天の星が我々人間の運命を左右するもので、その星の数が九つあるのだというようなことを巷間の九星術をやる者がいっておりますが、九星とは決してそんな意味のものではなく、天地大自然の運行に於いて、九つの原則があり、それらが人間の運命の変化消長を司さどっており、天地の運行と人の運勢とは同一のものでありますから、九星(性)によって天理天道を知り、それを人の運勢に当てはめて、転禍為福の道とするのが九星(性)であります。」 

 

最後に守屋洋先生の訳から抜粋

 

儒教はもともと「人間の本性は本来善である」という立場に立っている。「中庸」によれば本来善であるその本性は天から賦与されたものであり、それは人間である限り、誰にでも備わっている。だから、それを自覚して、常に自分を磨き、「道」に合致するよう努力することが人間としての義務になる。

 

※①子思(しし):中国、春秋時代の儒学者で、孔子の孫です。

※②礼記(らいき):周から漢にかけて儒学者がまとめた礼に関する書物です。

※③朱熹(しゅき) :中国,南宋の哲学者。朱子学の創始者です。

※④四書:儒教の根本経典とされる「大学」「中庸」「論語」「孟子」の総称。

※⑤不偏:かたよらず公正な立場にあること。

※⑥不易:いつまでも変わらないこと。

※⑦過不及ない:適度である。ちょうどよい。

※⑧人倫:人と人との間柄・秩序関係。君臣・父子・夫婦などの間の秩序。2 人として守るべき道。人道。

 

※⑨規範:行動や判断の基準となる模範。手本。